決意

 9年ほど昔の1998年頃、一時期FreeBSDにはまっていたことがあった。
 そのとき使用していたのは、FreeBSD 2.2.7-RELEASE。
 しかし、楽しいBSDの日々は長く続かなかった。


 500円で買ったジャンクの500MBのIDEディスクは悲鳴と共に破損。
 FreeBSD環境は文字通り音を立てて消え去った。
 悪いのはBSDではなくジャンクのディスクだったのだが、これを機に俺はFreeBSDが嫌いになった。
 さらに、その直後にアルバイトで引き受けたWebサーバー/メールサーバー構築はDebian GNU/Linux。
 当時はまだLinuxの知識も十分ではなくえらい苦労した記憶がある、というか苦労した。
 そして俺はこれが原因でLinuxが嫌いになった。
 その後、商用Unixを使うようになり、DEC DigitalUNIX、Compaq Tru64UNIX、IBM AIXを自宅で使用するようになった。
 2003年になり、Linuxカーネル2.6のメジャーアップデートに興味を持ちだした。
 2.6はすごいらしい。
 Freeのディストロは昔痛い目に遭ったので、商用がイイ。
 カーネル2.6を搭載したディストロはでないものか。
 そこで選んだのが、Turbolinuxだった。
 カーネル2.6を搭載したディストリですぐに見つかったのがTurbolinuxだったというのがその理由。当時、ディストリにこだわりはなく、カーネル2.6が使えればなんでも良かった。
 Turbolinuxはカーネル2.6正式版がまだ出ていないのに、Suzuka Betaには2.6のテスト版を搭載してきた。雑誌の付属のSuzuka BetaをThinkPadに導入してみたところ、KDEは驚異的なまでに進化していたし、Windowsの操作と同様の設定にもできた。Linuxの知識が皆無に等しかった俺は、Suzuka Betaを何度も再起不能にし、Webで調べながら自分色に染めていった。
 Suzuka Betaを自分色に染めていく課程で、目的ができた。
 「Windowsの代わりに、Linuxを普通に使う」
 Windowsでできることは、可能な限りLinuxでもできるようにしたい。
 そういう明確な目的が生まれた。
 Linux版のATOKがあると知り、Suzuka BetaにATOKを入れた。
 文字入力の障壁がなくなった。
 そして2003/10/24、Turbolinux 10発売。
 エロゲーの発売日ですら会社を休むことの無かった俺は、この日Turbolinux10を買うために有給休暇をとって会社を休んだ。
 ThinkPadにTL10Dを入れ、Windowsのメールデータやブックマーク、ユーザー辞書を移行してから、Linuxを使う頻度がかなり増えた。
 しかしながら、メインはWindowsであった。並行稼働させていたのだ。
 そんな俺を一気にLinuxに置き換えてしまう出来事が起こる。
 急性腸炎で入院だ。
 家に帰ることなく病院に直行した俺が持っていたのは、Linuxだけが導入されたThinkPad。
 Windowsは全く入っていない。
 病院ではPHSの使用が許可された。
 カード型PHSはすでにTL10Dで使用できるようにしていた。
 Windowsの全く存在しないLinuxだけのThinkPadとPHSだけのインターネット回線。
 頼れるものはそれだけ。
 入院と共に、後には引けないTL10Dの真の評価が開始された。
 入院して時間ができた。とにかく調べまくってダウンロードしまくって、Linuxを使った。
 1週間の入院を経て、(不具合はあるものの)TL10Dでも十分Windowsの代わりになることがわかり、Windowsを使うのをやめた。
 退院したときにはLinuxだけで一通りこなす人間になっていた。
 退院直後にThinkPad R50pを新品で入手し、TL10Dでxpを消し去った。
 最新機種でLinuxを使う今の俺がここで確立された。
 2004年2月。
 過酷な労働待遇を強いられた俺は精神病で休職。
 2004年3月を持って会社を辞めた。
 なにもかにもやる気が起きず、打ち込むものも無く、何度も自殺未遂をした。
 そんな俺を助けてくれたのが、Linuxだった。
 当時既に環境はTurbolinuxに移行していたが、足りない物や不具合に由来するものがあり難儀していた。
 自分が望む環境にするには、自分でパッケージを作るしかない。
 俺はRPMパッケージの作成に打ち込んだ。
 生きる目的が生まれた。
 精神科に通い、抗うつ剤や精神安定剤を飲みつつ、友人や知人に教えて貰ってコードを読んでパッチを作り、SPECを書いてビルドしては修正するという無職オープンソースデベロッパーの日々を半年続けた。
 その結果、ないモノは自分で作ることができるようになった。
 半年経った頃、再就職した。
 アプリ屋からインフラ屋になった。
 再就職祝いに自分にかってやったThinkPad X31はLinuxでxpを消した。
 どうしてもWindowsを使用しなければならない場面もあるので、VMwareを使い出した。
 IA-32だけでなく、IA-64、AMD64、Alpha、PowerPCにもTurbolinux由来のパッケージを移植し、同じような環境で統一した。
 Turbolinuxだけでなく、RHELやSUSE、YDL、AlphaCore、CentOSと幅広く使うようになった。
 2005年夏にはIBM x346を購入し、VMwareでバラバラも開発環境を統合した。
 IA-64、AMD64、Alpha、PowerPCで使用できるSRPMはこの環境で作成し、各プラットフォームではSRPMをリビルドするだけで使えるようにした。
 このころには仕事はThinkPad+Turbolinux、プライベートはPowerBook G4+YDLのスタイルになっていた。
 2005年末にTurbolinux FUJIが登場し、こちらも即購入した。
 が、しかし。
 レビューを書いた後に少し使い込んでわかったのだが、不具合があまりにも多くて常用できる代物ではなかった。
 Windowsエミュレーターは中途半端、アンチウイルスはSMP環境で不具合起こした。
 GUIベースのアップデートツールはお世辞にも使いやすいUIとは言えない。
 ネットワークスイッチツールも使い勝手がよろしくなく、結局はDavidやKAVは削除、ネットワークスイッチツールやGUIアップデートツールは使うことなく、昔ながらのCUIツールを使い続けた。
 KDE環境の文字コードとコンソール環境の文字コードが異なっているのも非常に不満だったし、フォントを差し替えた場合に一部フォントが反映されない不具合もあった。
 そのため、FUJIがでてから実運用することはせず、しばらくThinkPad T43pやVMware上で不具合を直し、足りないパッケージを作成した。
 実際にFUJIを実機でまともに使い始めたのは、ThinkPad X60を購入した2006年3月になってから、実際に使用に耐えられる環境を作り上げたのは同年の4月だ。
 このときも相当な不具合があって泣かされた。
  当時の日記 にそのあたりの回避方法が書かれている。
 この後、FUJIは原型を留めないくらいにいじってしまった。
 不安定だとかどうのこうのとかいう意見をしばしば目にしたが、不具合要素は除去したりいじったりしているので、一年前にX60に導入してから再導入した試しはない。
 うちの環境においては非常に安定している。
 今年の2月に、リニューアルと称してTurbolinuxのユーザーズフォーラムが事実上閉鎖された。
 俺は自他共に認める敬虔なTurbo信者であるが、この動きには激しく憤慨した。
 あれから1ヶ月以上経過した今も、貴重な情報交換場所だったフォーラムは再開されていない。
 今後新しいサービスに移行するにしても、ユーザーないがしろにするやり方には疑問を感じてならない。
 並行稼働させるなどの手は打てなかったものかと。
 そして、Vistaが発売された。
 当然のように俺はVistaなど使わない。使う必要もない。
 でだ。
 勝手にVistaブーム(?)に便乗してThinkPadのOS乗り換えようと2006年末からいろいろやっていた。
 最初の候補はSUSE。
 VMware GSXを使っていたときのホストOSはSUSEを使用していたので、扱いは慣れている。10.1を導入したのだが、なんていうのかモッサリ。
 フォントを差し替えたら いうこと聞いてくれなかった から 頭来てなおした とかいろいろやってるうちに10.2がでてヴァー。
 んで、何を思ったか2月から使い出したのが、PC-BSD。
 おー、これなかなかいいねー。
 で、1ヶ月で使うのやめた。
 俺が求めているのはこういうのじゃない。
 そこで俺は古巣のFreeBSDに戻るのかと思いきや、手を出したのがNetBSD。
 3月に入ってから使い始めた。
 ぶっちゃけなにもわからなかった。
 インストールすらできねえwwwww
 ウオーサオーってやつです。
 で、使い始めて2週間。
 もう慣れたw
 まだ実機環境では使ってないけど、VMware上にかなりイケてる環境作って、俺パッケージをもうかなり作ったし、結構な頻度で使ってる。
 NetBSD、わかりやすいし設定しやすい。
 パッケージ作るのもかなり楽。
 というわけで、いませっせとパッケージ作成中。
 x346の上に開発区画を作るか。
 今年はThinkPadの環境をNetBSDにしようかと決意した3月15日の夜であったw